2010年07月23日

続「アメとムチ」の構図 ~砂上の辺野古回帰~⑤

拒否撤回 「変節」の声
 
区の沿岸案容認 区長「状況が変化」


 2001年6月8日。米軍普天間飛行場の移設に伴う代替施設協議会で、政府が3工法8案を県や名護市に提示した。工法は埋め立て、くい式桟橋、ポンツーン(海上浮体)の3種。辺野古集落の中心から滑走路までの最短距離を1・5キロから2・95キロの幅をもたせた案が並んだ。

 地元の反応を伝える同日夕刊の本紙社会面は「辺野古区長 近距離埋め立てだめ」との見出しで区長大城康昌のコメントを掲載している。

 この中で大城は「3工法8案のうち近距離の埋め立て案について『区民の理解は得られない。拒否だ』と明言。『リーフ内の海は区民にとって必要なところ。そのことは市長にも伝えてある』と近距離の埋め立てならば区民の合意は得られない、との考えをあらためて表明した」とある。

 当時の県政策参与比嘉良彦は「地元の中でも大城区長は特に『近距離の埋め立ては絶対だめ』とこだわった。こうした声を聞き、建設予定地は最終的に2・2キロ沖合に決まった経緯がある」と振り返る。

 米軍再編の日米合意で建設予定地がキャンプ・シュワブ沿岸部のV字案に変更されたことを受け、県は「沖合2・2キロの従来案でなければ県外移設しか受け入れられない」と反対を唱えた。一方、名護市や地元区はV字案の「可能な限りの沖合移動」を求める条件付き容認に回った。

 比嘉は「5月の日米合意案に沿って、環境影響評価(アセスメント)の範囲内でV字案を沖合移動したところでせいぜい数十メートル。その案を容認対象にするのは、あまりに整合性を欠く。リーフ内の埋め立てに強く反対していた当時のスタンスは何だったのか」と大城の変節にあきれる。

 この指摘に、大城は「あのとき(3工法8案提示時)とは状況が違う」と介さない。01年当時の心情について「いろんな工法がある中で、リーフ内の海を壊すことは止めたいとの思いだった」と述懐した上で、「今は辺野古で日米合意され、政府も何としても造らなければならないと必死な状況。その中で区民の生活を守る交渉をやらなければならない」と臨機応変に向き合う考えを強調する。

 だが、行政委員の一人は「最初は陸から遠い海上に造る話だった。それで普天間飛行場が返還されるなら、との思いはだれにもあった」と明かしつつ、「それが心のすきだったのかもしれない。建設予定地がどんどん住宅地に近づいた経緯を見ると、結果をよく見据えてから交渉する必要性をいまさらながら痛感するが、もうあとには引けないだろう」と苦衷を吐露する。

 地元には、後悔とも覚悟とも知れない住民の複雑な胸中が交錯している。(敬称略)
(続「アメとムチ」取材班)




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Posted by ミチさん at 16:30│Comments(0)反基地
 
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