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2008年12月29日

沖縄の声に ごまかし策

 沖縄の声に ごまかし策  ~教科書検定審の「改善」報告提出~

 教科書検定審議会から「教科書の改善について」の報告(建議)が塩谷立文科相に提出された。今回の検定制度の見直し、その最大の理由は沖縄の怒りの声に国側が答えざるを得なかったからだった。

 昨年9月29日の県民大会に示された「怒りのマグマ」(仲井真弘多知事)に接し、渡海紀三朗文科相は執筆者による訂正申請の受理を表明。いかにも沖縄の声に応じたかのようだった。

 しかし、昨年12月26日に受理された訂正申請では日本軍の「関与」どまりで、「強制」記述の復活は拒否されたあくまで検定意見の誤りを認めない文科省の、理不尽な検定権限の強行、それは主権者沖縄県民に対する“あなどり”の行使でもある。2007年12月26日は、沖縄県民「屈辱の日」だった。 

 それからほぼ一年目の今年 12月25日、検定審議会と文科省は一致して、再び沖縄県民の意志を踏みにじった。すでに昨年中の沖縄からの要求で公開していた情報を、今後は自主的に開示するとしたのが「改善」だとうそぶき、その一方で執筆者側への締め付けを一気に強化した。透明性の向上を図るとした福田康夫首相の国会答弁さえ、形骸化したのだ。

 見え透いたこのごまかしの根底には、相変わらずの沖縄県民たち主権者へのあなどりを示す文科省側のおごりが見える。我々はこの偏見と子どもだましを放置はしない。新たな行動対象をよくぞ分かりやすく示してくれた、と皮肉を込めて新年度以降の取り組みを進めたい。

 ところで実は今回、過去40年間国側が門外不出としていた「教科書調査官(検定官)選考基準」を、文科相は隠し通せずついに好評に踏み切った。その七項目目の選考基準は「人格高潔で円満である者」や「身体健全である者」など差別意識そのものや、恣意的解釈を自由にできるものが列をなしている。これは1969年以来、必死に隠してきたのも当然だ。この反社会的基準で選考された検定官を検定業務に従事させてきた責任は重い。

 あの不当な「集団自決(強制集団死)」歪曲検定を事実上主導した検定官の存在に、沖縄県民は不公正さを強く感じていたその選考基準の公開と改善を求めた県民の声が、この画期的情報公開を改善の具体化に文科省を追い込んだのだ。これこそ検定の透明性を高める第一歩でもある。全国の主権者と共に、改善のなりゆき注視とごまかし打破に取り組みたい。

(2008年12月26日 沖縄タイムス朝刊 3面、<寄稿>高嶋伸欣・琉大名誉教授)
※本文中の太字等は、ブログ管理人が編集しております
  


Posted by ミチさん at 23:41Comments(0)教科書検定

2008年12月28日

非暴力の座り込みを排除 高江に動きが

ヘリパッド移設 高江住民に弁護団

 沖縄防衛局が東村高江区のヘリパッド移設に反対して座り込みを続ける住民十五人を相手に通行妨害禁止を求める仮処分を申し立てた問題で、県内の弁護士ら十六人が二十五日、「国が、住民の反対の声を聞かずに裁判を使って国策を押しつけることは不当」として弁護団を結成した。県庁で記者会見した池宮城紀夫弁護士は「八歳の子どもまでも『妨害者』と名指ししており、前代未聞だ」と厳しく批判した。

 沖縄防衛局は申立書で、国が所管し通行権を有するヘリパッド移設予定地で、住民が座り込みやテント小屋、車両による進入妨害を継続していると主張。移設事業は「外交、防衛など国策にかかわる極めて重大な意義を有する」とし、着手できなければ、基地の整理・縮小、日米安保体制に著しい損害を及ぼすとしている。

 池宮城弁護士は「国策に逆らう者は許さないということ。徹底的に闘う」と述べた。国が基地反対運動の住民を相手に仮処分申請するのは県内初ではないかとの見方を示した。

 加藤裕弁護士は、社会的弱者の権利の確保が裁判の本来の役割と強調。「公権力のある国が住民との話し合いに応じず、司法も用いて押し付けようとすること自体が不当。異常事態だ」と指摘した。

 仮処分申請の対象となった、ヘリパッドいらない住民の会は「百六十人の高江集落の十数人を裁判にかけ、移設反対運動をつぶそうという国の狙いは明白」との抗議声明を発表。メンバーらは「子どもが『逮捕されるの?』とおびえている。国のやり方に怒り、驚くばかり」「命を守り、静かに暮らしたいという当たり前のことを主張してきた」と訴えた。

 住民らは会見に先立ち、沖縄防衛局を訪れたが、「担当者不在」として、面会できなかった。 (08.12.26 沖縄タイムス朝刊 23面)


仮処分以外なかった 東村・ヘリパッド 防衛局長説明 8歳児は対象外
 東村高江区の米軍ヘリパッド移設工事に反対し、座り込みを続ける住民団体に工事現場への通行妨害禁止を求める仮処分を那覇地裁名護支部に申し立てた沖縄防衛局の真部朗局長は二十六日、「県民の負担軽減のため昨年七月に工事着手したが、ほとんどできていない。(同局として)民事上の手続きはおそらく初めて。ほかに適切な手段が見つからなかった」と報道陣に説明した。八歳の子どもに対する申し立ては二十五日付で取り下げたことを明らかにした。工事は那覇地裁の決定まで再開しない考えも示した。

 同局の仮処分申し立ては十一月二十五日付。初めて見解を示した真部局長は「非公開の裁判なので積極的に事実関係を申し上げることを控えてきた」と述べた。

 県警への警備要請や道路管理者の県に要望する措置を内部で検討したが、仮処分申請が「考えられる中では一番いいと判断した」と説明。子どもへの申し立て取り下げについて「不適切との判断か」との質問に、「そういう観点ではない。裁判の内容にかかわるので、具体的に答えにくいが、早期に裁判所の判断を求めたいという観点」とした。防衛局と住民双方の意見を聴く審尋は来年一月二十七日に那覇地裁本庁で行われる。(08.12.26 沖縄タイムス夕刊)


「国策裁判」集落に重圧 ヘリパッド移設 国が仮処分申請 東村高江 住民側「弾圧」と批判 [ニュース近景遠景]

 沖縄防衛局が東村高江区でヘリパッド移設に反対し座り込みをする住民に対し、通行妨害禁止の仮処分申し立てを行ったことで基地をめぐる住民と政府の関係が異常な展開に発展している。「移設は県民の負担軽減に必要」と防衛局。住民側は「反基地運動弾圧の新たな事態」と批判。地元自治体などが容認姿勢を見せる中、百六十人の集落に安全保障という「国策」が重くのしかかる。(政経部・吉田伸、社会部・嘉数浩二)

 「移設事業は県民の負担軽減の観点からも重要な事業だ」。沖縄防衛局の真部朗局長は二十六日、ヘリパッド移設事業の必要性を繰り返した。

 一九九六年の日米特別行動委員会(SACO)最終報告に基づく米軍北部訓練場の過半返還に伴う、同訓練場内へのヘリパッド整備は、今年二月末までに整備予定だった三カ所は来年三月までに工期を延長。残り三カ所も工事はほぼ止まったままで計画通りの実施は不可能だ。

 真部局長は「在日米軍施設区域の74%が県内に集中しているが、北部訓練場の過半返還が実現すれば71%になる」とし、事業推進と仮処分申し立ての「正当性」を主張する。一時は八歳の子どもも申し立ての対象としたことには、「やむを得なかった」と歯切れが悪いが、「今後もあらゆる手段で円滑な工事を実施したい」と自信をみせる。

 住民は座り込み支援や署名活動で支持を広げるが、国が踏み切った異例の仮処分申し立ては、高江だけでなく県民全体に突きつけられたものともいえる。

 「まさに国策裁判だ」。住民側代理人の池宮城紀夫弁護士は語気を強めた。

 県内の弁護士らが国の仮処分申し立てを知ったのは今月二十四日前後。わずか数日で、基地問題にくわしい十七人が弁護団へ参加する意向を示した。関係者は「国側が政治的圧力に加え法的手段まで用いて、基地反対の住民運動を弾圧する新たな事態」との危機感で一致しているという。池宮城さんは、同じ手法が名護市辺野古の反対行動など各地の運動弾圧に及ぶ危険もあるとし「国家権力が、住民の権利を守る司法の土俵を利用して基地を押し付ける異常さを、許すわけにはいかない」と訴える。

 仮処分申請の対象、ヘリパッドいらない住民の会の伊佐真次共同代表は、「国の政策が今の状況を生んだ。第三者が入れない審尋ではなく、公開の場で話し合いたい」と求めた。座り込みに参加していない女性は「小さな集落なので表立って行動できない」と複雑な心情を吐露しつつ、「国が強硬に出るほど、地域が引き裂かれる気持ちだ。すべては県内移設の矛盾が原因ではないか」とこぼした。(08.12.27 沖縄タイムス朝刊 25面)
  


Posted by ミチさん at 15:30Comments(0)高江ヘリパッド建設反対

2008年12月26日

奄美復帰55年② “沖縄堅持の「切り札」”

 奄美群島は1946年6月22日、連合国軍総司令部(DHQ)の宣言で日本から分離された。基幹産業だった大島紬(つむぎ)の生産は戦前の1%に激減。製糖業も販路を失った。

 再建に立ち上がったのは、故郷へ戻った若者たちだった。各地で青年団が結成され、復旧運動から、復帰運動へと拡大していった。


米国の思惑

 楠田豊春さん(86)=鹿児島県奄美市=は当時、20代で公務員組合の委員長となった指導者の一人。「アメリカの下じゃ食えない。若い情熱が復帰運動につながるのは当然だった」


 運動は「三条撤廃」をスローガンに燃え上がった。対日講和条約案の第三条が、北緯29度以南の南西諸島が分離される根拠だった。

 51年2月、奄美大島日本復帰協議会が結成。運動は熱烈に広がり、約14万人の署名が集まった。

 運動の中心にいたのは奄美共産党だった。同党指導部員だった崎田実芳さん(80)=同=は同年12月、沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長と会談。合同して琉球人民党が誕生した

 「三条がある限り、奄美も沖縄も復帰できないというのが当時の常識。裏を返せば、三条撤廃は沖縄・奄美の完全な復帰を意味しており、連携は当然だった」

 しかし、米国は当初から奄美だけの返還を想定していた。

 大阪大学大学院のロバート・エルドリッヂ准教授の研究によると、米国務省は47年9月の会合で「奄美を早期に返還することで、日本人の(沖縄などの)領土喪失に対する不満を、(北方領土を占領する)ソ連に向かわせる」との方針を話し合ったという。奄美はいざというとき、日本の関心を沖縄からそらすための「切り札」だった。


 52年5月、奄美大島を訪れた民政副長官のベートラー少将は、共産勢力の排除が奄美復帰の条件だとにおわせた。三条撤廃運動への揺さぶりだった。

 泉芳郎・復帰協会長の秘書となった楠田さんは、東京の政治家から示唆を受けたという。「米国が奄美の権利を放棄する。三条撤廃は必要ない。現実路線を取れ」というものだった。

 同年12月、復帰協代議員会は「政党色排除」を緊急動議。論争の末、崎田さんら三条撤廃派は翌年、代議員を更迭された。「沖縄は待っていられないと、完全復帰論はかき消された。まさにクーデターだった」(崎田さん)

 53年8月、米国は奄美返還を発表。4ヵ月後に復帰が実現した。


<奄美群島の復帰運動年表>

1946年 2月 2日  GHQが北緯30度以南の分離を宣言

1949年11月25日 奄美群島政府が開庁

1951年 2月14日 奄美大島日本復帰協議会結成
     4月25日 復帰請願の署名に住民の99%が応じる
     8月    奄美各地で復帰の断食祈願が行われる
     9月 8日 サンフランシスコ平和条約調印
           
1952年 4月 1日 琉球政府が発足
     4月28日 サンフランシスコ平和条約発効
          日本が独立。北緯29度以南は米施政下に
           
1953年 8月 8日 ダレス米国務長官が奄美の返還を発表
    12月25日 奄美が日本に復帰


(沖縄タイムス 2008年12月20日 朝刊27面より)


  


Posted by ミチさん at 17:34Comments(0)奄美

2008年12月22日

私たちは忘れない 11年前の12月21日にあったこと

1997(平成9)年のこの日、普天間飛行場移設に伴う海上ヘリ基地建設の是非を問う「名護市の市民投票」が開票され、条件付きを合わせた反対票が1万6639票(52.8%)と、条件付き賛成票の1万4267票(45.3%)を上回った。投票総数は3万1477票で、投票率は82.45%と高率だった。

基地反対を貫くか、基地建設と引き換えの振興策か、が最大の争点だったが、市民は政府にノーを突きつけた。政府は「キャンプ・シュワブ沖しか選択肢はない」とした。

比嘉鉄也名護市長は、投票結果を受けた会見で 「票の重みを厳粛に受け止め、対処していきたい」と述べた。

しかし、市長は3日後の24日、首相官邸で橋本龍太郎首相と会談し、海上基地建設受け入れを言明。同時に市長辞任を表明した。     
    (沖縄タイムス 08.12.21 「ニュース あんやたん 12・21」より)


註:「あんやたん」とは方言で「ああだったね~、こうだったね~」と昔を懐かしんでる時などに出る言葉のこと。   


Posted by ミチさん at 18:33Comments(0)辺野古新基地建設