2008年12月26日

奄美復帰55年② “沖縄堅持の「切り札」”

 奄美群島は1946年6月22日、連合国軍総司令部(DHQ)の宣言で日本から分離された。基幹産業だった大島紬(つむぎ)の生産は戦前の1%に激減。製糖業も販路を失った。

 再建に立ち上がったのは、故郷へ戻った若者たちだった。各地で青年団が結成され、復旧運動から、復帰運動へと拡大していった。


米国の思惑

 楠田豊春さん(86)=鹿児島県奄美市=は当時、20代で公務員組合の委員長となった指導者の一人。「アメリカの下じゃ食えない。若い情熱が復帰運動につながるのは当然だった」


 運動は「三条撤廃」をスローガンに燃え上がった。対日講和条約案の第三条が、北緯29度以南の南西諸島が分離される根拠だった。

 51年2月、奄美大島日本復帰協議会が結成。運動は熱烈に広がり、約14万人の署名が集まった。

 運動の中心にいたのは奄美共産党だった。同党指導部員だった崎田実芳さん(80)=同=は同年12月、沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長と会談。合同して琉球人民党が誕生した

 「三条がある限り、奄美も沖縄も復帰できないというのが当時の常識。裏を返せば、三条撤廃は沖縄・奄美の完全な復帰を意味しており、連携は当然だった」

 しかし、米国は当初から奄美だけの返還を想定していた。

 大阪大学大学院のロバート・エルドリッヂ准教授の研究によると、米国務省は47年9月の会合で「奄美を早期に返還することで、日本人の(沖縄などの)領土喪失に対する不満を、(北方領土を占領する)ソ連に向かわせる」との方針を話し合ったという。奄美はいざというとき、日本の関心を沖縄からそらすための「切り札」だった。


 52年5月、奄美大島を訪れた民政副長官のベートラー少将は、共産勢力の排除が奄美復帰の条件だとにおわせた。三条撤廃運動への揺さぶりだった。

 泉芳郎・復帰協会長の秘書となった楠田さんは、東京の政治家から示唆を受けたという。「米国が奄美の権利を放棄する。三条撤廃は必要ない。現実路線を取れ」というものだった。

 同年12月、復帰協代議員会は「政党色排除」を緊急動議。論争の末、崎田さんら三条撤廃派は翌年、代議員を更迭された。「沖縄は待っていられないと、完全復帰論はかき消された。まさにクーデターだった」(崎田さん)

 53年8月、米国は奄美返還を発表。4ヵ月後に復帰が実現した。


<奄美群島の復帰運動年表>

1946年 2月 2日  GHQが北緯30度以南の分離を宣言

1949年11月25日 奄美群島政府が開庁

1951年 2月14日 奄美大島日本復帰協議会結成
     4月25日 復帰請願の署名に住民の99%が応じる
     8月    奄美各地で復帰の断食祈願が行われる
     9月 8日 サンフランシスコ平和条約調印
           
1952年 4月 1日 琉球政府が発足
     4月28日 サンフランシスコ平和条約発効
          日本が独立。北緯29度以南は米施政下に
           
1953年 8月 8日 ダレス米国務長官が奄美の返還を発表
    12月25日 奄美が日本に復帰


(沖縄タイムス 2008年12月20日 朝刊27面より)






Posted by ミチさん at 17:34│Comments(0)奄美
 
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