2012年05月17日
沖縄タイムスが伝えた復帰40年
パソコンが、肝心な時にご臨終になってしまい、ブログの更新が滞ってしまいました。その間アクセスしていただいたみなさんにはたいへんご迷惑をおかけしてしました。この1週間、沖縄の地元紙には数多くの注目すべき論考がありました。じっくりと振り返ってみたいと思います。
復帰の日、5月15日の大弦小弦です
沖縄タイムス5/15社説 [復帰40年]普天間を解決する時だ
沖縄タイムス5/16社説 [新振計決定]自立への態勢は整った
沖縄タイムス(5/16)は、「復帰40年」を社説に取り上げた本土5紙の社説全文を掲載した。


復帰の日、5月15日の大弦小弦です
復帰から40年。国権の最高機関とされる国会の前に立ち、この地で自らの命を絶った県出身の青年に思いをめぐらせた
▼青年は恩納村喜瀬武原生まれの上原安隆さん=享年26歳。復帰1年後の1973年5月、バイクで国会議事堂正門に正面衝突、亡くなった。米軍統治への怒りを爆発させた「コザ騒動」に加わり、起訴された一人だった
▼上原さんの死を追ったドキュメンタリー「激突死」を製作したジャーナリストの森口豁 さん(74)は「復帰と同時に本土では沖縄離れが始まった。米軍基地は変わらなかった。政府、日本への失望と怒りの訴えだったのではないか」という
▼いまだ基地が集中する実態は続く。日米政府は沖縄の反対を無視し、普天間飛行場の辺野古移設に固執している。14日未明からはPAC3展開訓練が強行され、節目の日を静かに迎えることさえできない
▼東京で沖縄問題が話題に上ると、「振興策をもらっているのだから辺野古移設を受け入れるべきだ」という批判を受けることがある。負担軽減を訴える反論にさえ、「文句があるなら独立すべきだ」とぶつけられたこともある
▼基地問題をめぐる本土側との溝は深い。県民の多くが差別を感じている。変わらない現実に、たった1人で抵抗した上原さん。その死を無駄にしてはいけない。(与那原良彦)
(沖縄タイムス5/15、記事原文はこちら)
(沖縄タイムス5/15、記事原文はこちら)
沖縄タイムス5/15社説 [復帰40年]普天間を解決する時だ
[復帰40年]普天間を解決する時だ
1965年8月19日、佐藤栄作首相は現職の総理大臣として戦後初めて沖縄を訪れた。那覇空港での歓迎式典で、沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本の戦後は終わらない、との歴史的メッセージを発した佐藤氏は、こうも語っている。
「私たち国民は沖縄90万のみなさんのことを片時も忘れたことはありません」
のちに行政主席、県知事となる屋良朝苗氏は日記に記している。「総理を迎えた時は正直言ってさすが涙が出た」
復帰が実現したのはその日から7年後のことである。
72年5月15日。40年前の復帰の日、東京と沖縄で二つの記念式典が開かれた。対照的だったのは、佐藤首相と屋良県知事の式典での表情である。
政府にとって復帰を実現することは、何よりも戦争で失った領土を外交交渉で取り戻すことを意味した。
東京での式典で佐藤首相は、高揚感に満ちあふれた表情で万歳を三唱した。
だが、那覇の式典に出席した屋良知事の表情は終始、硬かった。「復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望がいれられたとはいえないことも事実であります」
あの日も、那覇市民会館と隣の与儀公園で、復帰記念式典と抗議集会が並行して開かれた。40年後のきょうも、同じ日に式典と抗議集会が開かれる。
基地問題をめぐる過重負担の構図はこの40年間、ほとんど何も変わっていない。
復帰から2009年3月末までに返還された米軍基地は、面積にして約19%にとどまる。この間、本土では約59%が返還されたのに、沖縄の負担軽減は遅々として進まない。
沖縄タイムス社と朝日新聞社が4月に実施した県民意識調査によると、沖縄の基地が減らないのは本土による沖縄差別だと思うかとの問いに対し、「その通り」だと答えた人が50%に上った。
「基地の現状は不公平だ」「本土の人たちは沖縄をあまり理解していない」―そう考える人たちが県内で急速に増えている。沖縄の人たちのまなざしが厳しくなっただけではない。本土の側の沖縄理解も、急速に変わりつつある印象を受ける。
この40年を通して本土と沖縄の心理的な距離は、今が一番開いているのではないだろうか。基地問題をめぐって「心の27度線」が浮上しつつある。危険な兆候だ。
米軍普天間飛行場の辺野古移設を盛り込んだ06年の日米合意は、死文化した。辺野古移設計画を断念し、早急に日米交渉を始めるべきである。普天間の固定化は許されない。
沖縄を軍事要塞(ようさい)化し日米で中国を封じ込めるという発想は、米中関係の奥深さや国境を越えた「ヒト・モノ・カネ」の移動、市民レベルの文化交流など、国際政治の潮流を無視した一面的な考えである。冷戦思考を引きずっていては、沖縄の未来を展望することはできない。
沖縄の民意は変わった。基地依存・財政依存からの脱却を目指した「沖縄21世紀ビジョン」の将来像は、多くの県民に共有されており、これからの沖縄振興は、この自立の動きを後押しするものでなければならない。
(沖縄タイムス5/15社説、記事原文はこちら)
(沖縄タイムス5/16、記事原文はこちら)
沖縄タイムス5/16社説 [新振計決定]自立への態勢は整った
[新振計決定]自立への態勢は整った
復帰40年を迎えた15日、県は沖縄振興の向こう10年間の道筋を描く「沖縄21世紀ビジョン基本計画」を決定した。初めて県が自前で策定した計画だ。仲井真弘多知事が、復帰記念式典出席のため来県した野田佳彦首相に手渡した。
同計画は、「自立」「交流」「貢献」を基本的な指針に掲げ、使い道の自由度の高い沖縄振興特別推進交付金(一括交付金)を活用した事業の推進や、アジアと日本をつなぐ国際物流拠点の形成などを盛り込んだ。
県は、同計画において、2021年度の県内総生産を10年度比約1・4倍の5兆1千億円とする目標を設定した。全国最低レベルの1人当たり県民所得も10年度の207万円から271万円(21年度)に増やすことを目指す。
本土復帰後4次にわたる10年ごとの沖縄振興(開発)計画は、いずれも国の主導で決定されたものだ。対して今回初めて県が策定し、国は支援する仕組みへと転換した。
本土復帰後、沖縄に投下された国の振興予算は約10兆円に上る。道路などの社会資本は一定整備されたものの、雇用を創出する有力な地域産業の育成は進んでいない。民間主導の自立型経済をどうつくるかは、最大の課題となっている。
仲井真知事が「従来の国計画に基づく手法では限界にきており、沖縄が自ら歩んでいく新たな段階に入った」とインタビューでその意義を語ったように、沖縄の真の自立に向けた第一歩としたい。
野田首相は、復帰記念式典の式辞で「アジア太平洋の玄関口として沖縄は新たな発展の可能性がある」と述べ、新振計の実現に尽力することを約束した。
那覇空港第2滑走路について「2013年度予算編成で財源を検討し、整備を推進する」と明言した。鉄道整備のあり方についても「必要な調査・検討を進める」と示した。
第2滑走路整備は、国際貨物ハブ事業を推進する上で、さらに離島住民の生活を支える拠点として、経済団体などが強く求めている。公共交通システムの整備も、主要幹線道の渋滞が激しく経済的損失も生じているため導入を求める声が高まっている。
駐留軍用地跡地利用特別措置法も成立し、返還軍用地の給付金の給付期限を拡充するなど、基地の跡利用を後押しする態勢が整った。
いずれも今後10年の沖縄にとって重大プロジェクトになることは間違いない。
過去の振計では金融特区や自由貿易地域、特別自由貿易地域などの制度が鳴り物入りで創設されたものの、さまざまな制約が付き、期待した効果は表れていない。
巨額の政府予算が投じられた北部振興策や再編交付金も沖縄の自立につながっているとはいえず、建設された箱物がかえって自治体の負担となっているケースもある。
これまでの課題も踏まえ、県自らが策定した計画を真の自立にどうつなげ、県民の豊かな生活に結び付けるか。施策の具体化はこれからだ。「ポスト復帰40年」は、自ら切り開く気概にかかっている。
(沖縄タイムス5/16社説、記事原文はこちら)
沖縄タイムス(5/16)は、「復帰40年」を社説に取り上げた本土5紙の社説全文を掲載した。

(読売新聞5/15社説、記事原文はこちら)

(岩手日報5/15社説、記事原文はこちら)

(南日本新聞5/15社説、記事原文はこちら)

(中国新聞5/15社説、記事原文はこちら)


(沖縄タイムス5/16)
Posted by ミチさん at 02:17│Comments(0)
│本土復帰・沖縄主権