2011年07月15日
1971年7月15日の毒ガス移送(第2次)から40年
2次移送は7月15日に始まり9月9日まで続いた。この56日間、移送ルート沿線の住民多数が避難させられ分断された生活を強いられた。
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7/19追記
7/28追記
虫けら同然のあの時代
変わらぬ基地を問う
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(琉球新報7/15社説、記事原文はコチラ)
(琉球新報7/12)
(琉球新報7/13)
(琉球新報7/14)
(琉球新報7/15)
(沖縄タイムス7/15、記事原文はコチラ)
(沖縄タイムス7/15)
7/19追記
40年前の琉球新報1面には異様な欄があった。「きょうの毒ガス移送」。毒ガスの種類や数量、通過時刻、交通規制、気象などが連日載った
▼1971年7月15日から57日間続いた第2次移送の情報だ。GBガス(サリン)の搬送が始まった19日からは局面が変わる。米軍はトレーラーに探知用のウサギ2匹を積み込むようになった。それまでのマスタードガスよりも致死性が高いため、避難する住民も一気に増えた
▼米軍は避難の必要はないと移送の安全性を強調したが、沿線の住民は自主的に、そして区を挙げて避難した。「安全」の言葉が信用できなかった。その構図は今の福島の状況と重なる
▼米軍が圧倒的権力を持つ時代に、毒ガス撤去を実現させた背景には、初の直接選挙で選ばれた屋良朝苗主席が一歩も引かなかったことが挙げられる
▼1月の1次移送で住民による阻止計画が出た際、米軍幹部は「移送ができなければあなたは責任を持つか」と詰め寄った。主席は「なぜ琉球政府に責任があるのか。持ち込んだ軍の責任ではないか」と席を立った。その強い態度にランパート高等弁務官が血相を変え、場を取りなしたという
▼今この国では「脱原発」を表明した首相が、閣僚の反発を受けて「私的な思い」と腰が引ける始末。覚悟も気概も責任も欠如したリーダーには、国民の不安が見えていないのか。(琉球新報7/19コラム「金口木舌」より)
7/28追記
その毒ガスは どこへ運ばれ どうなった?
(沖縄タイムス7/27)
Posted by ミチさん at 01:10│Comments(0)
│沖縄史